質量分析屋の髙橋です。
今までこのコラムでは、質量分析に関する様々な箏、特に基礎的な箏を中心に書いてきました。私が質量分析に関わり始めたのは、群馬高専の5年生の時、今から約40年前です。
その頃から現在に至るまで、質量分析は大きな変化を遂げました。イオン化・質量分析部・得られるマススペクトル、など。質量分析に関する用語然り。しかし、40年前あるいはもう少し最近から現在に至るまで、原理的に正しくない用語などがアップデートされずに使われ続けてしまっているケースが散見されます。
そんな、現在では間違いとされている用語あるいは推奨されない用語を、幾つか挙げて説明したいと思います。
- マススペクトルの横軸(m/z)に関して
マススペクトルの横軸は「m/z」です(エムオーバーズィーと読む)。mはイオンの質量を統一原子質量単位で割った値、zはイオンの電荷数です。表記はイタリック体と定められています。「m/z」は、少し前までは「質量電荷比」と呼ばれていました。
mは質量を質量単位で割っているので、質量の単位をもちません。またzも数なので単位をもちません。「m/z」は単位をもたない無次元量という箏になります。しかし「質量電荷比」と言ってしまうと、単位(u)をもつ質量を、単位(クーロン)をもつ電荷で割った値となり、意味が違ってきてしまいます。そのため、現在では「質量電荷比」は非推奨用語になっています。
また、昔は「m/z」の箏を質量数と呼んでいた箏がありました。そして、未だにその言葉を使っているケースをたまに見かけます。皆さんご存じの通り、質量数は陽子と中性子の数の和、すなわちただの数であって質量を表す言葉ではありません。質量数は、ノミナル質量と数値が同じになる場合が多いので混同して用いられてきましたが、m/zやノミナル質量の代わりに質量数を使うのは、質量分析学的には間違いと言えます。
イオンの電荷数が1の時、m/zはイオンの質量と等しくなるので、m/zを質量と言うならあながち間違いとは言えませんが、質量数は質量を表す言葉ではないので、使うべきではないと考えます。
m/zを質量と言う場合も、zが1である、すなわち1価イオンである箏を示す必要があります。また、1価イオンでm/zが等しくなる質量はあくまでもイオンの質量であって、元の分子の質量ではありません。EIによって生成した分子イオン(M+・)について議論する場合であっても、イオンの質量と分子の質量には電子1個分の違いがあります。もちろん、整数で議論する場合には、電子1個分の質量の違いは無視出来ますが。zが1以外の時つまり多価イオンでは、m/zと元の分子の質量は全く異なる数値になります。
マススペクトルの横軸を、以前の「質量電荷比」と呼ぶ、すなわち質量の単位をもつような呼び方をするとき、問題になるのは多価イオンを扱う場合です。例えば、ノミナル質量が1,000 uの化合物を正イオン検出ESIで測定して、プロトンが付加した2価イオンが検出されたとします。そのイオンが検出されるm/zは、(1,000+2)/2=501となり、元の分子の質量の約半分の数値になります。マススペクトルの横軸であるm/zに質量の単位が残っていたら、イオンのm/zが元の分子の質量の半分になるという状況をうまく説明できなくなってしまうと思います。
- イオンの名称特に分子イオンについて
質量分析で観測されるイオンの種類は、イオン化法によって様々です。GC/MS(イオン化法はEI)では、比較的安定な化合物であれば分子から電子が1つ脱離したM+・(分子イオン)が生成しますし(同時にフラグメントイオンも多くの場合生成する)、LC/MSではESI, APCI共に[M+H]+が生成しやすいです(その他の付加イオンも生成する箏があります)。[M+H]+のことは、質量分析学会が発行しているマススペクトロメトリー関係用語集では、「プロトン付加分子」として定義されている。私の業界人の知り合いに、“最後が分子で終わるのにイオンを表す用語ってどうなの?”という人がいます。一理あるなぁと思いつつ、他の良い用語も思いつかないので、私もこの用語を使っています。
ところが、MSメーカーさんの無料セミナーなどで、[M+H]+のことを「分子イオン」と説明していた箏がありました。分子イオンと呼ぶ箏が出来るのは、前述のM+・とM-・の2つだけです。
- スキャンについて
質量分析においてスキャンとは、マススペクトルを取得するために質量分析部の電圧を連続的に変化させる(掃引あるいは走査)ことを言います。具体的には、二重収束質量分析計(Sector-MS)の電場電圧や磁場電圧、四重極質量分析計(Q-MS)の高周波電圧と直流電圧、などが挙げられます。Q-MSは選択イオンモニタリング(selected ion monitoring, SIM)による定量分析に多用されており、マススペクトルを取得する測定法をスキャンモード、定量用の測定法をSIMモード、などと呼んで区別しています。1枚のマススペクトルを取得する時間をスキャン時間と言います。例えば測定するマススペクトルのm/z範囲を50-1,000、スキャン時間を0.1秒とすると、m/z 50に対応する電圧からm/z 1,000に対応する電圧までを0.1秒間で走査し、それを繰り返し行います。
Q-MSではマススペクトルを取得する際に電圧を走査(スキャン)するので、スキャン測定とか、スキャンスピードとか、フルスキャンマススペクトルとか、スキャンという用語を問題無く使えます(図1参照)。

図1 Q-MSにおける電圧走査を表す図
ところが、Sector-MSやQ-MSに比べると最近になって実用化された飛行時間質量分析計(TOF-MS)やOrbitrap質量分析計などの、マススペクトルを取得するときに電圧掃引を行わない質量分析計においても、上記と同じスキャン測定やスキャンスピードなど、と言う用語が頻繁に使われているのを目にします。質量分析部の原理に関係なく、「マススペクトル取得=スキャン」と勘違いしてしまっているのでしょうか?
ご存じの方が多いと思いますが、TOF-MSでは様々なm/zのイオンに対して一定の加速電圧をパルス的に印可します。これらのイオンは飛行管に向かって一斉に打ち出され、飛行中にm/zの大きさによって分離され(m/zの小さなイオンは速く飛行し、m/zの大きなイオンは遅れく飛行する)、マススペクトルとして記録されます。使用する加速電圧は一定であり、走査(スキャン)されません(図2参照)。
またOrbitrap-MSでは、イオンのm/zによってOrbitrap内での振動周波数が変わることを利用してマススペクトルが取得されます。イオンを振動させるための励起電圧が印加されますが、走査(スキャン)はされません。
マススペクトルを取得するための電圧走査を伴わない装置において、スキャン測定、フルスキャンマススペクトル、スキャンスピード、などの用語を使うのは、原理的には正しくないと考えます。
まだあるのですが長くなってしまったので、残りは次回に持ち越したいと思います。

図2 TOF-MSにおけるイオン分離
